## パーシヴァル・ローエルの「オカルト・ジャパン」について
On the Occult Japan by Percival
Lowell(?)
(平岡厚・横尾広光 杏林大学保健学部)
9月28日、会員の平岡厚氏と横尾広光氏から、杏林大学研究報告教養部門第十七巻に投稿・印刷中の上記論文が新着論文として事務局に届きました。
会報ですでに紹介した同論文の第1報告、第2報告に続くものである。本報では、ローエルが1893年に伊勢神宮に参拝した時の紀行文である「ISE」の章の和訳を行っている。この本のベースになっている日本アジア協会の雑誌の論文(1894)との若干の差異についてはれていない。平岡氏が撮影した現在の伊勢神宮境内の写真も挿入される予定である。第十七巻の発行は2000年早々であるとのことである。
## ローエルと穴水町
元穴水町収入役 坂下たまき
◇火星の研究と冥王星の数学的計算による予測で有名な、米国人天文学者パーシバル・ローエル(一八五五−一九一六年)は、明治二十二年(一八八九年)五月に、能登半島のわが穴水町を訪れていた。今から三十数年前、初めてこのことを知ったのは時の驚きは、今も忘れられない。同時に、この貴重な歴史の一コマを是非とも、町づくりに生かしたいと考えた。
時期到来となったのは、昭和五十四年七月、当時、金沢工大助教授だった宮崎正明氏により、ローエルの紀行文「NOTO」が全訳出版されたことである。ここから、わが町とローエル天文台のあるアリゾナ州フラグスタッフ市との交流が始まった。翌年、わが町の代表団がフ市を訪問した。さらにその翌年、わが町に小さなローエル顕彰碑が建ち、同じものがローエル天文台へも送られた。またローエル祭の始まり、平成四年十月には、ローエル天文台理事長で、ローエルに最も近い親族の一人でもあるW・L・パットナム氏が来朝され、「穴水の人々の心に、今もローエルが生き続けているようだ」と印象を語っている。
幸い、一昨年夏ごろから「日本ローエル協会」づくりの動きがある。昨年三月、準備事務局担当の杏林大学の横尾広光、平岡厚の両氏が来町され、意見交換を行い、協会結成に賛意を表された。
両氏のご努力により、すでにニュース・レターも五号まで発行されている。国外からも参加申し込みがあるという。しかし、天文関係者ばかりでなく、ローエルに関心を持つ多くの方々が参加できるような協会を、と願っている。(石川県穴水町)
## ローエルの能登紀行を追う
直江津からは人力車で
ローエル研究家、宮崎正明
ひとりの人間の生涯の中で、一冊の本に出合うことは、ひとりの親友に出合うほどに貴重な体験と考えられよう。ましてや、その本の著者が現存する人ではなく、外国人であった場合、さらに不思議な巡り合いであることに思いをはせると、さらに神秘さが増すように思われる。
私にとってその一冊の本とは、Percival Lowell Noto Unexplored Corner of Japan 『パーシヴァル・ローエル著の能登|人に知られぬ日本の辺境|』の一冊であり、初版の発行は一八九一(明治二十四)年であるから、今年から数えると百八年前の出版ということになる。
私事にわたるが、私は昭和二十七年から当時、金沢市の本多町にあったアメリカ国務省の金沢アメリカ文化センターに昭和四十三年の閉鎖まで十六年間勤めていたが、蔵書約一万冊の中にFerris Greenslet‥The Lowells And Their Seven Worlds1946(フェリス・グリースレット著ローエル家の七つの世界、一九四六年刊)があり、パーシヴァル・ローエルが一八八九(明治二十二)年に能登半島を旅行し、その旅行記を書いたことを初めて知った。
ニューヨークで初版本
その後、私はこの NOTO の原本を入手するべく、東京・神田の古書店めぐりなどもしたが、金沢アメリカ文化センターが閉鎖になった昭和四十三年、幸いニューヨークの古書店にあった NOTO の初版本を手に入れた。そして実際に翻訳に着手したのは、金沢工大の英語科講師として就職した昭和四十四年ごろからである。
一冊の英語で書かれた書物を、日本語に翻訳するためには英和辞典が一冊あればという考えは飛んでもないことであり、出来得る限り英語と日本語で書かれた参考文献を、一冊でも多く蒐集して読むことが要求されるのである。翻訳書は読みにくいとは昔からよく言われている。私の憶測かも知れないが、参考文献類が一冊でも多く読まれたか否かに関係があるだろうと、密かに考えている。
さらにもう一つ必要なことは、この本のような旅行記の場合、ローエルの旅をした個所への取材旅行であり、彼が宿泊したであろう旅館の探索である。残念なことに旅館なり宿の名称が全く書かれていないことは取材者泣かせであった。ただ、彼の宿泊した宿の地理的な所在の説明は、細かに書いてあるのが唯一の手がかりであった。
浅間山で同じ感動味わう
釜めしで知られる群馬県横川から、長野県軽井沢までの碓氷峠を一日がかりで歩き、彼が乗った馬車鉄道の 痕跡が見つからないかと思った。しかし昔の馬子が死んだ愛馬のために建てたのでもあろうか、馬頭観世音の傾いた石碑を見かけたくらいが関の山であった。
しかし青空に白煙をたなびかせる 篭を伏せたような形の浅間山が見えた時は、ローエルも視野にとらえた時の感動を書いているので、私も瞬間、大きな感動を覚えた。
ちなみに上野|直江津間の鉄道は明治二十一年十二月一日からである。ローエルは従者兼コックの山田栄二郎と共に、明治二十二年五月三日に上野を出発しているので、この幹線が出来て間もなくということになる。横川|軽井沢間の碓氷峠は 勾配が急なので馬車鉄道で越え、軽井沢で待っている列車に乗り、終点直江津に向ったのである。
ちょうどその時から二百年前の元禄二(一六八九)年、奇しくも松尾芭蕉が弟子の曽良と共に、直江津から高岡までを徒歩で通過し、しかも能生には芭蕉もローエルも一泊して宿泊した菊屋旅館を突き止
めた。
直江津からローエルの一行は人力車を 駈って日本海沿岸を進み、高岡から氷見に至りここで一泊して翌五月八日、荒山峠を徒歩で越え、ローエルはいよいよあこがれの能登の国に入ってゆくのである。
## ローエルの能登紀行を追う
穴水にオランダの面影
要路「荒山峠」を越える
ローエル研究家 宮崎 正明
荒山峠は高さ四百?ほどの峠だが、昔から越中の氷見、能登の鹿島を結ぶ重要な交通の要路であり、また能登の海産物、木炭、漆などを運搬する役目を果たしてきた。頂上より能登半島一円を眺めるには絶好の地点でもあり、江戸末期の戯作者十返舎一九がこの峠を、「天下の絶景」とたたえた一節が著書「金の草鞋」の中にある。明治のころまで峠の頂上には茶店が二軒あり、旅人たちに茶やまんじゅうなどを商っていた。
立山の登山を決意
ローエルは荒山峠を上って来る時に、ふと振り返ると澄み切った碧空のはるか上方に、真白い雪に被われた立山連峰を発見し大きな感動を覚え、密かに立山登山を決意した。私も一日がかりで荒山峠を越えたことがあるが、登る時も下る時も人一人にも出合わなかった。近年、氷見から七尾方面に至る湾岸沿いの道路が完成し、峠の役目はなくなってしまったのである。
一行は七尾に続く能登街道を今度は荷馬車に便乗して北上してゆく。途中で彼の目を魅いたのは、田んぼの中に竹の棒に突き射されている大きなカエルを目撃したことであった。そのうち大小の船を浮かべた七尾港が前方に見えてくる。七尾からは人力車を雇って切り通しを抜け、名高い和倉温泉の宿に一泊する。現在とはおよそ異なる木造の平屋か二階建ての宿屋が、海の埋め立て地に数軒立ち並ぶだけだった。
ローエルは、和倉温泉を訪ねた最初の外国人は自分だと思ったが、昨年の夏二人のヨーロッパ人が、和倉温泉の泉質調査に金沢からやって来たと聞いて残念がった。翌朝、七尾港発穴水行きの小型蒸気船の便があり、和倉にも船は立ち寄ると聞き、その便を利用して七尾湾を北上して穴水まで行くことにした。
そして二十?ほどの小型蒸気船に日本人客と乗り込んだ。好天に恵まれ、波穏やかな七尾湾を北上してゆく。ローエルは客室に入らず、絶えず甲板の船べりに腰を下ろし、パイプタバコの煙をくゆらせながら、初めて眺める七尾湾の美しい風景に心を打たれていた。
すると、丸太ん棒を組み合わせて海中に建つ不思議な構築物に、身も心も奪われてしまう。ボラ待ち櫓である。ローエルは、この櫓を称して「創世記に出てくるノアの大洪水以前にあった掘っ立て小屋の骨組を、これも有史以前の伝説による怪鳥ロックが見つけて、巣に選んだ場所とでも言えようか」とつづっている。
ポンポン蒸気船はやがて、両岸の狭まった海路に入り、彼は運河を行くようだと考える。運河といえば、火星の表面上に観測される幾条もの細かい線を、大先輩にあたるイタリアの天文学者スキヤパレリがキヤナリ(運河)と呼び、ローエルも妖星を観測してその存在を認め、英語ではキャナルと呼称している。
さて船は穴水港に入り、穴水の町を流れる小又川の近くに停泊した。乗客たちはグループごと小舟に乗せられて運ばれ、ローエルも穴水の町に一歩を印した。
上陸して間もなく、ローエルは小又川の河口近くで、ひとりの老婆がぺったり座り込んでいるのを見付けで興味を持つ。よく見ると、彼女が手にした竹竿の先からクリノリン(女性がスカートをふっくら見せるために、スカートの下に着用する装身具の一種)のような漁具の下半分が水につかっているのを老婆はじいっと眺め続けていることが分かった。「話によると、これらの尊敬に価するお婆さんたちは隠居さんたちである。隠居とは社会から絶縁された立場に置かれた老人を言い、このお婆さんたちは寡婦ではない未亡人とでも言えるのであろう」。
穴水について心に刻まれたことの一つは、休憩した宿の片田舎とは思えない落ち着いた、静かなたたずまいであった。また穴水の地形が 曾遊の地オランダに似ていると述べているのも面白い。
## ローエルの能登紀行を追う
日本海の水平線、心にきざむ
立山連峰まで足延ばす
ローエル研究家 宮崎正明
ローエルは穴水で宿泊せず、着いた日の午後すぐに、漁師の操る帆かけ舟で穴水湾を南下して七尾湾に向った。当時の日本在住外国人は、明治二十二年二月十一日に制定された日本国憲法によって外務省発行のパスポートを所持していなければならなくなり、旅行期間は二週間以内と制限されていた。ローエルは立山登山の計画が胸中にあり、旅程を急ぐことも理由にあったのかも知れない。
舟が大分進んだころ、左側に猿島という名の島が見えた。ある老人が猿たちと住んでいたが、彼が死ぬと猿は四散してしまったとの言い伝えがある。また夕暮れが迫ったころ、屏風岩の前を横切ろうとした時、海面を渡って女たちの歌声が耳に入ってきた。彼女たちは能登島へ薪にする木の枝をとりに行った帰りで、舟の上にはソダが山のように積んであった。夜の海の上では、彼女たちの歌声がまるで思いのたけを訴えるかのように響きわたるのが印象的だった。
舟はなおも漕ぎ続けられ、あたりは完全に闇に閉ざされた。冷たい風はなくなったが、七尾港に到着するにはまだ時間がかかる模様だった。そのうち七尾の港と町の灯がちらちら見え、まるで星たちの群を眺めているような気分になった。
出発時に推測した所用時間はとっくに過ぎ、結局六時間かかった。舟はようやく七尾港の岩壁にたどり着き、既に夜中を過ぎていたが従者の山田栄次郎が連れてきた親切な警官に宿屋を案内され、やっと夕食にありつくことができた。明けて五月九日の朝、二人はまた人力車上の人となり、松や杉の美しい並木をくぐり抜けて突き進んだ。
途中で粘土質の切り通しの坂を、三人のいたずら小僧たちが着物の尻を地につけて、頂上から道路に向かって 滑りっこ をしているのに出くわした。ローエルは母親たちの思惑も忘れて、子供たちに少しばかりの小遣い銭をはずみ、遊びを続けさせてやった。次に目に映ったのは、女たちが荷車を引きながら七尾方面へ向かう場面であった。中にはまだっている女性もいることがローエルの胸を締め付け、「能登は決してエデンの楽園ではない」とつづった。
加賀の国へ入る曲がり角まで来ると、人力車は左へ急カーブして越中の国へ通ずる名高い倶利伽羅峠に差しかかる。狭い谷間の道をぐるぐる回りながら登ってゆく間に、夕日があたりの山複を赤く染め始め、太陽は雲の間に逃げ込む準備をしているように見えた。
人力車は石動、高岡を通り、小高い峠を幾つか越えると、はるか彼方に純白の雪を頂いた立山連峰がそびえ立っている。平野を過ぎると、しばらくして富山に到着した。その夜、富山で一泊し、翌五月十日には立山連峰の一角、標高二五四一?の針の木峠への登山を試みる。富山を翌日の昼に出発して上滝に至り、案内人らをともなって常願寺川に沿って進み、千垣あたりの農家に一泊、周囲をしった激励しながら山を越え、渓谷をわたって針の木峠を目指して歩みを進めた。
しかし、にわか仕込みの付き人に山道に詳しい者はいない。一行は標高一四〇〇?の立山温泉にたどり着いたが、五月だというのに深い積雪、肌をつんざく寒気に悩まされ、ここで引き返すことにした。一行は芦峅に向かって下山、途中農家に宿し五月十四日の朝、人力車で上市から北国街道を北上し、二度と会えない日本海の水平線に浮かぶ能登半島に別れを告げた。
ローエルの著書「能登|人に知られぬ日本の辺境」は、次のような文章で締めくくられている。
「能登への旅は出発する前には、どんなにか憧れ、胸に描いた旅であったろうか!私の憧れは失われ、同時に私はそれを得たのだ。
能登はすでに乙女ではなく、私のものになった。過去の憧れはさらに魅力を深めて、未来への憧れと姿を変え私の心を魅きつける。人でも場所でもその良さだけは、いつまでも心の中に留まっているものなのだろうから」
能登旅行を終えて明治二十二年六月には、出身校であるハーバード大の卒業式出席のため帰国。「能登」はボストンの自宅で執筆され、同二十四年にニューヨークで出版された。(金沢市在住) 平成10年12月20−22日付「北國新聞」より。