宇宙人の目 日本人の目

◎ 論説 リスク社会の倫理と責任
     科学事件の3類型分析から

 昨年のゲノム解読の成功に象徴されるように、二十世紀の科学は、知ったこと
(学)を徹底して細分化(科)する。小分けしたものから論理的で客観的、しか
も普遍性を備えた法則を見つけ出そうと、科学者はとことん追究してきた。この
到達点が、いいにつけ悪いにつけ二十世紀の科学であった。
 しかし、到達点にたどり着くにつれて、地球温暖化など人類の生存を脅かす難
問が私たちの前に立ちはだかり、社会に無視できない人為的なリスク(危害)を
およぼすリスク社会を生み出しつつある。生存を確かなものにするには、科学者
には専門集団として行動指針(倫理基準)を持つという倫理性や、リスクに対す
る安全の確保など公衆に対して説明する責任を負うという責任性が求められる。
一方、国もまたリスク社会では有用性との見合いで研究費の配分を通じて科学を
コントロールしようとしている。こうした動的な視点からみると、科学事件は三
つの類型に分類される。科学事件とは、科学がかかわり社会的に大きな影響を与
える出来事のことである。これからのリスク社会で科学者が倫理と責任をしっか
りと果たすには具体的にどうすればよいか、類型に沿って述べてみたい。
 この分析から、因果関係がすでにはっきりしている状況のリスクに対応するだ
けでなく、それをこえた予見可能性の高い科学ジャーナリズムが生まれるだろ
う。これからのリスク社会では「過失がなければ責任なし」という従来の価値観
を転換させる努力が科学者にもジャーナリストにも求められる。
 まず、科学事件の第一のタイプは、事件によってこれまでの社会通念が通用し
なくなるものである。例えば、臓器移植は、これまでの「人の死は心臓死」とい
う社会通念の変更を迫り、脳死という考え方が登場してくる。このタイプでは考
え方の質的な変化が生じていることから、専門家は自らを律する新しい行動指針
を作ろうという動きに出やすい。
 ヒトゲノム解析研究の国際組織のヒトゲノム解析機構(HUGO)が一九九二
年にいち早く国際倫理委員会を発足させ、四件の国際指針を示しているのがこの
好例である(1)。クローン羊、体外受精、核兵器開発などもこのタイプに含ま
れるが、質の変化に対応して倫理基準以上の、すべての人が守らなければならな
い例えば生命倫理法など法による研究規制を今後視野に入れる必要がある。
 第二は、社会通念という「質」の変化はみられないが、限界許容量という「
量」の副作用が問題になるタイプの事件である。例えば、無制限の残留性農薬の
使用は、自然環境を破壊し、レーチェル・カーソンの言う「沈黙の春」を招くと
いうような出来事である。事件の発端は科学者がつかむものの、質的な変化が起
きたわけではないところから、科学者が自ら新しい倫理基準をつくろうという動
きに出にくい。リスクに対する公衆の安全確保について科学者の説明責任の自覚
も希薄である。このタイプには、このほか、地球温暖化、電磁波被害、環境ホル
モン、水俣病、薬害エイズ問題などが含まれる。
 環境ホルモンの危険性を最初に警告した「奪われし未来」(2)がそうであっ
たように、そのいずれの事件も、社会的に許される許容量はどの程度かなどリス
ク社会の問題点を、分析力のある科学者とマクロ的に物事をみる科学ジャーナリ
ストとが共同して掘り下げていく必要があるだろう。
 第三のタイプは、「質」とも「量」とも無関係で、社会の中の組織に問題があ
ることを露呈させる科学事件である。例えば、東海村臨界事故のような組織事故
である。既存の組織の在り方に問題があることから、組織の見直しを迫る。この
タイプにはこのほか、もんじゅ事故、相次ぐH2ロケット事故などがある。これ
らの事件は科学の論理性、客観性、普遍性に直接は関係がないことから、科学者
自身は新しい行動指針をつくろうとは考えない。むしろ外部の組織やシステムに
問題があると責任を外に転嫁しがちである。
 国産ロケットH2開発者の五代富文前宇宙開発事業団副理事長が最近、「宇宙
産業振興阻む内外の壁」という論考(3)を発表している。外の壁として米通商
法スーパー三〇一条を挙げるなど指摘は鋭い。が、こうした組織事故の場合、ロ
ケット開発にかかわる個々の組織を全体として見渡す仕組みづくりがより重要で
あるという視点が希薄なのは残念である(4)。米口腔宇宙局のチャレンジャー
号空中爆発事故では技術者の権限、組織のあり方を徹底敵に見直し、今日の成果
に結びつけているのとは、対照的だ。
 質的な変化が伴う第一のタイプは、科学者も一般の社会も倫理や責任を自覚し
やすい。これに対し、第二、第三のタイプは対応があいまいになりやすく、ジャ
ーナリストの取り組みが大事である。その場合、ジャーナリストが持つべき事件
検証など行動指針の具体的な内容と項目については、拙稿(5)を参照してほし
い。では、科学者はタイプ二、三の科学事件でどういう行動指針を具体的に守る
必要があるのか。日本にはまだその基準となる教科書はないが、米国には有名な
実践的な教科書(6)があり、情報倫理を含めて工学倫理教育では参考になる。
工学倫理をきちんと身につけた技術者を米国ではプロフェッショナル・エンジニ
ア(PE)と呼ばれ、強い権限が与えられるなど、一定の評価がなされている。
これからの科学でもプロフェッショナル・サイエンティスト(PS)が求められ
ると思う。PSを増やすためには、科学研究費はリスク社会の倫理と責任を明確
にした計画に与えるという原則を確立したい。
 吉川弘之(元東大学長)氏も科学者の立場から科学の問題群をそれぞれ固有、
状況、関係の破綻として分類している(7)。その内容は示唆に富んでいて参考
になるが、問題解決には、科学者の好奇心の「変化」に期待するとしている。
が、専門を持つ科学者の好奇心の変化には限界がある。
 類型分析から事件の性格のポイントをつかみ、人文・社会科学の成果も結集し
て社会への影響の程度をいち早く予見し対応する。世界に通用するそんな科学的
な科学ジャーナリズムを日本に早く構築することが、これからのリスク社会には
欠かせないだろう。
文献(1)武部啓 ヒト遺伝子情報の特許と倫理、「科学」2000年4月号 
 (2)シーア・コルボーン、ダイアン・ダマノスキ、ジョン・ピーターソン・
マイヤーズ「奪われし未来」 翔泳社、1997
  (3)2001年3月7日付「読売新聞」「論点」
  (4)J.リーズン 「組織事故」 日科技連、2000年
  (5)科学事件(書評)、「科学」2000年9月号
  (6)ハリス、プリチャード、ラビンス「科学技術者の倫理 考え方と事
例」日本技術士会訳編 丸善 1998
  (7)吉川弘之 科学情報誌「イリューム」20号、1998
 −−「科学」2001年6月号 岩波書店 (筆者=井上正男 運営委員)


◎ 書評  岩波新書『科学事件』 柴田鉄治著 2000年

 戦後日本の科学ジャーナリズムを振り返ると、一九五〇、六〇年代の輝く成果
の、いわば「受け売り・解説」の時代、公害が叫ばれた七〇、八〇年代の「批
判・警鐘」の時代、そして、生命科学の進展など、成果の利点と問題点が見極め
にくい九〇年代の「判断困難」の時代に分けられる。受け売りの時代では科学記
者は科学や技術のプラス面を強調するだけでいい、科学者依存の幸せな時代だっ
た。その反動で警鐘の時代では、ことさらにマイナス面のみを強調する、記者に
とってこれまた幸せな時代となった。これに対し、この十年は、記者にとって覚
悟の要る苦しい時代に入ったと言える。
 そんな折、比較的最近に起こったできごとを選び「緻密な検証にもとづき、今
後とも科学技術にどう向きあえばいいかを考察する」目的の本書が出たことは、
タイミングがいい。朝日新聞社で論説委員、科学部長、社会部長として活躍した
著者らしく、事例も脳死・臓器移植、薬害エイズ、体外受精、原子力、水俣病、
大地震、クローン羊と幅広い。「検証のなかから具体的な教訓を引き出」(はじ
めに)すという狙いからは、時代の要請にこたえたいという意欲が伝わってく
る。
 しかし、「とくに報道の検証には力を入れたい」という本書の中身を具体的に
点検すると、貴重な事例集ではあるものの、全体としては目的と狙いは達成され
ていないと思う。なぜそうなったか、結論を先に言えば、報道の対応の何をどん
な基準に照らして検証するのかということを検証可能な形でまず明示して、それ
に基づいて論ずるべきであのに、そうなっていないからだ。検証の物差しが本書
のどこにも明示されていないのは残念である。とはいえ、最近の事件をいくつか
まとめて取り上げ、科学ジャーナリスト自らその報道を検証しようという本書の
試みは、世界に通用する科学ジャーナリズムを日本に構築する場合の大事な一歩
である。その一歩をさらに前に進めるには、どういう物差しが必要か、今後の課
題は何かについて述べてみたい。
 正確で公正な記事をめざす科学記者であろうと、責任ある評論を担う論説記者
であろうと、判断の難しい九〇年代以降の科学ジャーナリストはその社会的な責
任を果たすためには具体的な行動指針(倫理基準) として十一の条件を守ること
が大事であると評者は考えている。
 要約すると、以下のとおりである。
 1 現代史の目撃者、あるいは不偏不党と称して時代に超然としてはならない
(対象に切り込む自分の視点、意見をまず持つ)
 2 権力だけでなく、大衆に対しても迎合してはならない
 3 多様な報道をさまたげないよう、右へならえ式の無分別なセンセーショナ
リズムを慎む
 4 国民の健康や不安がからむ場合、公平、中立と称して社会への影響にかか
わる科学論争を回避してはならない
 5 原著論文を読みこなすなど自立した洞察力を発揮しなければならない
 6 議題設定だけでなく自ら、あるいは研究者と共同して提案・実行できなけ
ればならない
 7 問題をできるだけ数値的に掘り下げ、客観的で合理的な判断をしなければ
ならない 8 対象となる専門集団の行動指針を分析の基準として設定、その基
準に基づいて、その集団が実際にとった行動を検証することを怠ってはならない
 
 9 誤った報道で被害が出た場合、反論の機会を提供するなど、できるだけ自
主的に救済する努力をする
10 ニュース報道はおこった事実を記者が再構成してものであり、事実とはズ
レがありうることなど、メディアについてよく知ってもらい、公衆のメディアリ
テラシーを高めなければならない
11 主張は自分自身にも適用しなければならない     
 この基準を、第一例についての報道がマスコミの「なだれ現象」で始まったと
指摘した脳死・臓器移植の一章に当てはめると、その報道が「パックジャーナリ
ズム(注 右へならえの画一報道)」であるとの批判があるのは、センセーショ
ナルを慎むという行動指針3が日本のマスコミに欠けているからである。科学ジ
ャーナリストが日頃から行動指針5の自立した洞察力を持ち、8の事後検証を行
っていれば、行き過ぎを是正する負のフィードバックが働いたであろう。第二章
の薬害エイズの検証も、5の洞察力を発揮しなければならないことをよく示して
いる。
 これに対して五章(大地震)では、地震警報対策への疑問として「社会機能マ
ヒさすな」「地震予知できると思うな」と十数年一貫して著者自ら紙上で論陣を
張ったことは、5の結果とも言え、注目すべき姿勢である。さらに、6の提案・
実行が伴えばなおよかった。そうしていれば、東海地震対策の是非といった議論
を越え、例えば地震と上手に付き合う文化地震学といった専門研究者だけではで
きにくい提案のあるジャーナリズムの可能性をみいだすことができただろう。
 第三章(体外受精)、七章(クローン羊)は検証というより、起きたことの解
説であり、分析が未消化である。受精卵を含めて胚とは科学者や医師にとって何
であったか、三年前のゲノムに関するユネスコ宣言の生命科学者の行動指針に照
らして、8の事後検証をしてほしかった。
 和解まで四十年かかった水俣病の第五章では、科学者に対する追及に比べて、
ジャーナリストの報道、評論に対する分析は、「初期に二つの判断ミス」を挙げ
るだけで、甘い。当時のジャーナリストは「中立」であることが公正と思い込む
など、この初期ミスの根は著者がいう以上に深い。いつの時点でも科学論争を避
けてはならないという4や1、7の重要性を教訓として強く打ち出すべきだった
と思う。
 第四章では東海村の臨界事故を取り上げているが、「予想をはるかに超えた、
意外性のかたまり」「あまりにもお粗末」な事件と片づけている。しかし、この
事故は、5の洞察力を働かせれば、「まさか」ではなく「やはり」起きたもので
あり、日本のモノづくりへの警告と分析できたはずである。
 原発について「どの新聞の論調もイエス・バッド(条件付賛成)だといっても
過言ではない」と書いているところにも、分析不足が現れている。例えば、巨大
システム開発において組織間で責任と裁量の範囲を明確にした士気の高い差組織
づくり、人づくりであると、またそのために何が必要なのか、ズバリ切り込んで
ほしかった。原発はまだ未熟な技術であるという認識で「謙虚に、おそるおそる
やってみる」という姿勢で取り組むことが大事という本書のようなあいまいな教
訓を引き出していては、時代の要請に十分こたえた検証とはいいがたいと思う。

 以上検討してきた事件に共通の教訓として、科学報道は、あるときはセンセー
ショナルに、あるときは無知と気まぐれから報道しないという無責任であっては
ならないということがあげられる。そして、質の高い科学報道があたりまえのよ
うに行われるためには、専門家集団としての行動指針が要る。日本にこうした指
針がないことと、米国のような個人資格で加入できる科学ジャーナリストの組織
が日本にはない、ジャーナリスト教育プログラムが大学に根づいていないことは
無縁ではない。
 最後に、地球温暖化、携帯電話などの電磁波なども取り上げてほしかったテー
マであった。この「みえざる事件」の分析から、科学者の期待にもこたえること
のできる、起きてから騒ぐのではない予見性のある科学的な科学ジャーナリズム
がつくれるだろう。
    (書評者=井上正男 運営委員)−−「科学」2000年9月号 岩波
書店